子どもの心に寄り添う 9.2.22
「わんぱくでもいい!○○ハム」この響きの良いフレーズは、子どもの自由を大切にしているかのように思わせます。でも、いきなりわんぱくに遊べといわれても、とまどう子どももいます。「わんぱくでもいい!」は「受験地獄を勝ち抜くんだ!」と同じく、親のエゴからでた言葉ではないでしょうか。子どもたちは子どもなりに、懸命にがんばって生きているのです。それを、さらに周囲からがんばれ!がんばれ!といわれても、苦痛となるだけでしょう。昔は近所で異年齢の子ども集団がありましたから、わんぱくが普通のことでした。現在の家庭では、子どもの起きている日中は、父親抜きで、母と子だけの生活となっている家庭がほとんどだと思います。子どもの心はひとりひとり違います。ひとりひとりの子どもの心に寄り添って、その心の成長を守ってあげたいと思っています。
火曜日は園長せんせいのお勉強の日 9.2.22
「今日は、せんせいの部屋お休みなの?」「今日は、せんせい、お勉強に行く日なんでしょう?」
ふつうは、朝と給食の後の自由な時間は、職員室も子どもたちの遊び場になっています。おりがみをしたり、トレーシングペーパーで絵本の表紙を写したり、めがねを作ったり、びっくり箱を作ったり、凧を作ったり、腕時計を作ったり、指輪を作ったり、ぴょんぴょんがえるを作ったり、お絵描きをしたり、絵本を作ったり、てっぽうを作ったり、伸びるはしごを作ったり、ハンドバッグを作ったり、マグネットのボードで遊んだり、パソコンで遊んだりと、子どもたちは毎日、いろいろな願い事を持ってやってきます。幼稚園は、勉強をする所ではなく、子どもたちの願いのかなえられるところだといいな、と思っています。(因みに冒頭の件は、毎週火曜日は香川県立保育専門学院に講師として、領域「人間関係」の講義に行っているのですが、子どもたちの指摘にはなかなか鋭いものがあります。)
手作りの「はたおり」です。
材木にノコで櫛のように切目を入れて枠を作りました。毛糸のマフラーやバッグが作れます。冬の室内遊びのひとつですが、男の子にも人気があります。
子どもの願いをかなえる 1.9.26
おうちではかなえられることが、幼稚園では「幼稚園はおうちと違うのよ」と一蹴されてしまう。おうちではかなえられないことが、幼稚園ではかなえられるべきなのに。(突然にえみちゃんが「おうちでも運動会のポンポンで遊びたいからポンポンを作りたい」と言ったときに、材料をそろえるのがめんどうだなあ、と一瞬思ってしまったことから考えたこと。)
人と関わることの楽しさ
(平成8年度保育専門学院の領域「人間関係」講義概要)
みなさんは子どもと関ることが好きだから、保育者をめざしているのだと思います。外から見ると、保育者は子どもと遊んでいれば給料がもらえる、楽な仕事と見えるようです。でも、実際はなかなか大変な仕事です。
子ども同士のケンカ、保護者間のトラブル、以前は悩みながらも当事者同士、なんとか解決して良い関係を作りだそうと努力しました。
しかし、最近は、なにかトラブルがあると、解決しようと努力するのではなく、買い物するお店を替えるように幼稚園を替わってしまいます。地域で異年齢集団で遊ぶことが、大きい子は塾通いで忙しく(小さい子も?)難しくなってきています。物質的な豊かさに楽しみを求めるのではなく、「人と人の関わりに楽しさを見い出して生きること」を育てる機能が社会(町・村・家庭)から失われつつあるようです。
現在では「保育に欠ける」とは保護者が家庭にいることができない状態だけを差すのではなく、「人と関わる力と心を育てることがされていない」状態も含めて考えなければならないと思います。「人と関わる力と心を育てる」ことが、これからの保育者の大切な仕事だと思います。(ちょっと理屈っぽくなってしまいました。)
とはいえ、保育の原点は子どもと接するのが楽しいと思えることだと思います。どんなりっぱな教育理論や方法よりも子どもの育ちには一番です。
その他、断片、いろいろ
子どもは生きている
今も生きている。明日になって生きるのではない。
子どもは大人になった時に価値があるのではなく、子どもは子どもとしての生命に価値がある。
子どもにとって遊びとは生きているということ。
生きていることを喜べる子どもに
神様の与えてくださった生命を大切に
生き生きと生きる
力いっぱい生きる
良いところと悪いところ
盆栽のように、子どもを良くしようとして悪いところをチョキチョキと切り捨ててしまうと、あとには何も残らない。
良いところを悪いところよりも、もっともっと伸ばすことによって人間としてのバランスをとるようにすること。