障害の有る無しにかかわらず、子どもにはひとりひとり個性がありますから、子どもへの接し方もひとりひとりに対して違います。他の子どもよりも時間をかけて、丁寧に接してあげることが必要な子どももいれば、自宅で充分過保護に育てられているので、幼稚園では多少突き放した接し方をすることが必要な子どももいます。保護者から見れば、あの子にはあんなに手をかけているのに、うちの子には手をかけてくれないと思われるかもしれませんが、けっしてそれは「ひいき」しているわけではなく、その子ども、子どもによって、必要なことが異なるのです。
私は、障害はその子の内側にあるのではなく、外側(社会)にあるのだと思っているので、きっと、他の幼稚園・施設では障害児と呼ばれ、障害児として扱われる子どもも、当園では、障害児としてではなく、ただ、「他の子どもよりも丁寧に接してあげることが必要な子ども」として接しています。けれども、当園は私立のふつうの幼稚園ですので、治療の専門家も、訓練の専門家もいません、特別に補助の先生を配置することもできません。当園のできることは、当園として対応可能な範囲で、その子どもにとって、居心地の良い状態を保ってあげることだけです。ですから、とても心苦しいのですが、こちらの通常の配慮では、そのお子さん自身の生命にかかわる危険が生じるおそれがある場合、また、他の園児との関係において重大な事故が発生するおそれがある場合、また、そのお子さんの成長のためには、幼稚園という施設での教育は適当ではないと判断される場合は入園をお断りしています。
さて、毛利子来(もうり・たねき)先生の「障害をもつ子のいる暮らし」(筑摩書房)に「子どもは、ただ発達するためだけに生きているのではありません。」という言葉がありました。共感しました。毛利先生は多数の著作やテレビ等でご活躍ですのでご存知かと思いますが、東京の渋谷で小児科をなさっているお医者様です。
この「障害をもつ子のいる暮らし」という本は、私は、とても良い本だと思います。本のオビに書かれているこの本の特色を引用すると/「生まれた子どもに、何らかの異常や障害があるといわれたとき、具体的にどうしたらよいのかを親の心に添って共に考える一冊です。第一部では、病気や障害をどう受けとめたらよいのかを、第二部では、障害をもつ子とどう暮らしたらよいのかを、親と子の暮らし全体の中で考えます。第三部は、各専門家による、それぞれの異常や障害についての「医療編」です。巻末に、「患者の会・親の会」の一覧を付けました。」/とあります。私の購入した時点では定価2500円でした。著者の毛利子来先生および、筑摩書房のご許可を得て、第一部より”「発達」をめぐって”という文章をここに転載させていただきました。
以下は「障害をもつ子のいる暮らし」(毛利子来・山田真・野辺明子・編著/筑摩書房・1995年発行)からの転載です。/
「発達」をめぐって 毛利子来(もうり・たねき)
このごろは、育児の話となると、すぐ「発達」ということが持ち出されるのが、流行みたいになっています。何か月の赤ちゃんの「発達のすがた」はこうだとか、何歳の子は「こういう発達をしなければ」といった具合にです。普通の子でもそうなのですから、障害があるとか、その疑いがあると診断された場合には、とりわけ、やかましくいわれるのが常かと思います。こうまで強調されると、なんだか、とても大切なことのように感じてしまいますが、しかし、ほんとうに、そうなのでしょうか?その「発達」で、追い回され、落胆させられたり、くたびれきっている多くの親を見ていると、どうも、どこかが、ちがっているような気がしてなりません。もしそうなら、むきになるのは止めたほうがいいし、そんな流行も改めてもらわなければならないので、以下、発達について、少し突っ込んで考えてみることにします。
発達の見方は冷たすぎる
最初に、おかしいと思うのは、この「発達」という言葉が、どうにも生活の実感になじめないということです。だって、どの親が「うちの子は発達がおそいゾ」とか「おたくのお子さん、発達がいいわねえ」などというでしょうか?普通は、そんないい方ではなく、「うちの子はおかしいゾ」とか「おたくのお子さん、かしこいわねえ」といったいい方をするはずです。ところが、発達を重視する専門の方々は、そうした親の子どもへの見方は「科学的ではない」、そこに情が入るから、もっと客観的に見る必要がある、というのです。そこで、専門の方々の子どもの見方は、親とは、全くちがってくることになります。例えば、幼児の健康診断のとき、だまって積み木を前に置き、それを積み上げるかどうか、静かに観察しています。親ならば「それ、積んでごらん」とか、思い通りにしなければ「ダメねえ、こうするのよ」といった具合にけしかけたり、うまくやれれば「上手、上手」と拍手喝栄したりするところをです。また、そのとき、親にしがみついて泣いてばかりいたり、親から離れてうろうろ動き回っていたりすると、「問題あり」として、親子ともども観察室に入れ、マジック・ミラー越しに「盗み見」するといったこともします。もちろん、親だって、子どもがそんなふうなら、たいていは、頭に来て、「困った子だ」とは思うでしょう。いったい、この子ってどうなんだろうと、ちらちらと様子を盗み見もすることもあるでしょう。でも、なだめたり叱ったりもしないで、ひたすら観察を続け、「問題あり」などと、わけ知った顔はしないにちがいありません。このように、専門家による発達という見方には、庶民のわが子への思いとは質を異にした、侮辱的なほどの、冷たさがうかがえるのです。そして、それはまた、発達という言葉が、どれだけ、庶民生活とかけ離れているかを物語るものでもあるのです。
発達で子どもの世界は分からない
なのに、どうして発達が重視されるかというと、どうやら、それで「子どもが分かる」と考えられているフシがあります。よく、育児書なんかに、「子どもは無限の可能性を持っています」といった文句が書かれているのを見ることがあるでしょう。あれは、子どもを「発達可能態」とする理論に基づいているのです。つまり、子どもを、将来に向けて発達することができる状態としてとらえる考え方です。ですから、その発達する様子さえ見つめれば、「子どもが分かる」という理屈になります。実際にも、子どもの発達のプロフィールとか「すがた」なるものを診断して、その子を「そういう子だ」と説明したり、だから「こういうふうに育てるべきだ」と指導するといったことが、ごくフツーに行なわれているのが現状です。けれど、これほど浅い子どもの理解の仕方はないと思います。だいいち、「発達可能態」として規定することが、いま、ここに、存在する、子どもの「生」を無視することになります。常識でも分かるように、子どもは、ただ発達するためだけに生きているのではありません。少なくも、子ども自身は、発達を意識して、日々を暮しているわけではないでしょう。なのに、「発達可能態」として規定してしまったら、子どもの現在そのものを見ないことになるし、全てを未来の観点からだけ評価することになりかねません。そして、そのことは、たぶんに、大人による、子どもの将来の先取りとなり、押し付けともなりえます。もちろん、発達という現象はあるにはちがいないのですが、それは、子どもの一面にしかすぎません。子どもの心の中には、精神発達などという枠組を越えた、さまざまの思いが渦巻いているはずです。身体だって、機能の発達などには納まり切れない、そのときどきの衝動とか快・不快に翻弄されるといった面が大きく働いているはずです。それらは、「実存」ともいうべき、子どもの存在の不条理を物語るものであるのでしょう。実際、そうした子どもの姿は、親や近所のひとなど、その子と日常的に接している人間には、痛いほど、よく分かるものではないでしょうか?けれど、発達を重視するひとたちは、そうした深いところまで知ろうとはしないのです。せめて、恐れくらいは感じてほしいのですが。
それから、発達については、それが、あくまで、大まかな筋道を示すものでしかないことを知っておきたいと思います。同じ筋道でも、その歩み方は、子どもによって、ひどくちがいます。もたもた、ゆっくりの子がいれば、寄り道をしたり行きつ戻りつする子や、すっとんで行ってしまう子もいます。きっと、それぞれに、その道を、ちがったふうに体験しているにちがいありません。それを、発達の筋道ということで、十把一からげにしてしまったら、ひとりひとりの子どもの体験は、理解しようがなくなるでしょう。というわけで、発達をもとにして、子どもの世界を知ったつもりになるのは、ひかえるようにしたほうがよさそうです。だいいち、人間を、いや動物だって、そんな単純な尺度で測ろうとする行為自体が、たいへん失礼なことでしょう。それに、そんなやり方ではおそらく見過って、当の子どもにとって悪いことになってしまう恐れさえあります。子どもを知りたいのなら、やはり、日頃の付き合いで、思い込みも失敗もしながら、体当たりで、時間もかけて、肉薄して行くほかはないと思うのです。
発達課題と段階のフィクション
にもかかわらず、世間には、「発達課題」とか「発達段階」といった言葉が氾濫して、いかにも重要であるかのように使われているのは、どういうことでしょう?そもそも、「発達」については、色々の理論があるのですが、いま、日本では、能力の向上、つまり「できるようになること」をもって発達とする、という考えが主流になっています。そして、その理論によれば、発達は、課題を設定することによって、段階的に達せられて行く、とされているのです。とすれば、そういった言葉が氾濫するのも、無理ありません。ですから、とりわけ、障害があるとか、その疑いをかけられた子は、まず、発達の段階がどのレベルにあるかをチェックされ、次いで、それに見合った発達の課題が設定され、その線で指導や療育が行なわれる、という扱いを受けることになるわけです。ですが、これについては、多くの問題があるので、頭から信用したり、いわれたとおりに従おうとはしない方がよいと思います。だいいち、「できるようになること」の、その中身が問題です。いったい、なにができるようになることが、発達なのでしょう?
それは、人間として本来できるべきことができるようになることだ、という答えが返ってきそうです。しかし、その「できるべきこと」というのは、必ずしも、「人間本来のもの」とはいいきれないはずです。確かに、例えば、二本足で歩くというのは、人間の生物としての特性ですが、それが「できるべきことだ」と考えるのは、人間社会のひとつの思想です。どんなにそれが大勢を占めていようと、別の思想もありうるのです。現に、「歩けなくてもいい」、「自分たちだって人間だ」と主張する脳性マヒのひとたちがいることは、見過ごされてはなりません。生物としての特性といわれるものでさえこうなのですから、排泄の自立、つまり、ひとりでトイレに行けるようになるといったことになると、それが「人間本来のもの」とは、とても、いいきれないでしょう。事実、排泄の仕方は、文化によって、いちじるしく異なります。トイレでするというのは、いまの日本の文化の大勢が要求するものにすぎないのです。同じように、言語の発達というのも、文化によって、要求される内容が、相当に異なります。とりわけ、いまの日本では、高度の工業化と情報化、それらに伴う管理社会化とに見合った言語能力が、教育行政によって、強く求められているということにほかなりません。それを「人間本来の言語能力」とするのは、いかにも、いい過ぎです。
このように、発達の内容とされているものは、要するに、いまの日本の社会が、それも社会の多数者、もしかすると支配者が、子どもたちに強いている能力であったのです。それは、はっきりいって、生産性とか適応性などといわれるものにちがいありません。で、よく持ち出される「発達課題」というのは、こうした発達の内容を、子どもの年齢に応じて、それにふさわしいと判断された程度に、割り振ったものと考えていいでしょう。そして、その際、参考にされるのが、「発達段階」というものなのです。ですが、この発達段階も、あらかじめ発達の内容が決められたうえで設定されることである以上、ある限られた範囲内での区切りにとどまらざるをえません。ですから、その範囲を超えた子どもの事実については、段階もなにもあったものではないでしょう。なのに、そうした事実に対してまで、段階を判断しようとするのですから、ムリが生じてくるのも不思議はありません。それに、たとえ、生産性や適応性に基準を置いた能力の発達にかぎってみても、その発達の姿は、決して、一様ではないのです。どの子もみんな同じ発達の段階を踏んで行くと考えるほど、現実離れした議論はないでしょう。ある限度で、同じ筋道をたどるということは、抽象的にはいえても、現実のひとりひとりの子どもについては、成り立ちません。むしろ、驚くほど多様なやり方で発達して行くのが、ほんとうの姿でしょう。さて、そうであるのに、あらかじめ決められた基準で、発達の段階をチェックし、発達の課題を課すということになると、その結果は、どうなるでしょうか?それは、子どもたちの間に、かぎりなく、格差をもたらすことになるにちがいありません。なぜかというと、その求められる能力を身につけて行くことができれば「発達が良い」とされ、できなければ「発達が悪い」とされてしまうからです。また、同じ「できる」にしても、その「できかた」に無限の差が生じてこないはずはないからです。そのことは、学校での成績を見れば、すぐ分かることです。こうしたわけで、発達の段階とかレベル、発達の課題とか「めあて」なんてものは、あまり気にしないにかぎります。それよりも、親自身の考えやわが子の個性を大切にして育てて行くほうが、ムリがなく、かえって、現実に見合って、充実した人生が歩めるのではないかと思うのです。
できないことの意味
でも、そのとき、どうしても気になるのは、ひとよりも「できない」ということではないでしょうか?確かに発達には問題があるのは分かるけれど、それにしても、やっばり、「できない」よりも「できる」ほうがいいではないか、という思いです。しかし、これには、二つの、大きな、落とし穴が開いています。それに気が付かないうちは、まだ、しっかりと人生を歩めないのではないかと、危ぶまれるのです。
その一つは、「できる」のがいいと、頑張ることのもたらす悲劇です。おそらく、大半の障害児といわれる子どもは、少しはできるようになったとしても、完全には追い付くことはできないでしょう。中には、全然変わらないといった子もいるかもしれません。そうしたときの落胆は、頑張りが強かったほど、大きいと覚悟しておかなければなりません。いや、親の落胆よりも、当の子どもが、その間受ける辛苦のほうが、もっと悲劇的だと知っておかなければなりません。
二つめは、もっと根源的な誤りを侵してしまうことです。それは、「できる」ことばかり目指して、そのために、余計に「できない」ことを増やす、という誤りです。とりわけ、発達を促すためというので、施設に入れたり、特殊な療育を受けに通わせるようにした場合に、その恐れが大きくなります。なにしろ、そのために、家庭とか地域で過ごす時間が、相当に奪われてしまいます。これは、将来、社会の中で、ひとにもまれて生きていかなければならない子どもにとって、致命的なことです。たとえ、そうではなくても、なにかが「できる」ようになることは、その裏で、必ず「できない」ことを作る、というジレンマを逃れるわけにはいきません。
例えば、上手に歩ける大人は、地面を這って進むのが赤ちゃんよりも下手です。ベらべらしゃべる人間は、沈黙に耐えにくく、詩人のような選び抜かれた言葉は使えません。知識のみ蓄え、わけ知りになったひとは、新しい真実を見出せず、世の不正に抗議することもできません。このように見てくると、「できない」ことには、「できる」こととは別の、良いところ、優れたところがあるという、意外な事実にも、気づかされます。
そうした意味で、発達ばかり望むことは、障害児こそが持つ世界を殺してしまうことに通じると知っておきたいのです。
/以上は「障害をもつ子のいる暮らし」(毛利子来・山田真・野辺明子・編著/筑摩書房・1995年発行)からの転載です。快くこのホームページへの転載をお許しくださいました毛利子来先生および、共編著者の山田真先生、野辺明子先生、ならびに、この本を出版された筑摩書房、そして、編集部の中川美智子様、フリーライターの森井真理子様に感謝いたします。(のぞみ幼稚園 園長 樫村文夫)
「この文章は、毛利子来先生および、筑摩書房の許諾を受けて転載したものです。著者ならびに発行所に無断で複製、翻案、翻訳、送信、頒布する等の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。」