「カオス系の暗礁めぐる哲学の魚」を読んで9.8.7
「カオス系の暗礁めぐる哲学の魚」(黒崎政男著/NTT出版刊)
新聞の書評欄に「この本は、我々にとってコンピューターとはいったい何なのか、という問題を、三つの観点から解明している。電子テキストと著者性の問題、人工知能とそこから見た人間の認識の問題、そして、ヴァーチャル・リアリティとの関連で問題になる、実在とはそもそも何か、という問題、この三つである(永井均/評)」とあったので読んでみました。私は哲学の素養が無いので哲学的な内容は半分も理解できなかったのですが、随所に物の見方についての発見がちりばめられており、読んで良かったと思っています。ちょっと理屈っぽいのが好きな人、印刷や出版に興味のある人には、この本はお薦めです。
印象に残った箇所
その1 グーテンベルクの活版印刷
私は今まで、グーテンベルクの活版印刷の発明によって、多くの人が、自由に、いろいろな本を読めるようになったのだと思っていました。ところが、この本によると、当時、一番確実に商売になる本は聖書だったので、(グーテンベルクの最初の印刷物が聖書だったことも、そういう意味があったのですね。)どの印刷屋も聖書を印刷したそうです。そのため、聖書以外の書物はかえって忘れさられ、教会の権威が守られる結果となったそうです。
その2 リアルとは
「私が、ある晴れた日の昼下がりに、高原でゆっくりした時間をすごしているとしよう。緑の木々に囲まれ、柔らかい太陽の光の中で、かすかに小鳥のさえずりだけが聞こえている。ああ、世界はなんと穏やかで静かなことだろう。この場合、我々は、私だけが緑の木を見、私だけが太陽の光を感じ、私だけが静けさを感じているのだ、と考えることはないだろう。木が緑だから、私は木が緑だと感じ、世界が静かだから、私は世界は静かだ、と感じている、ということを当然のように前提しているだろう。だが、隣にいる犬は妙にそわそわして落ちつかない。それが、実は少し離れた所にいる子供が犬笛(人間には聞こえないが、犬にだけは聞こえる笛)で遊んでいるからだとしてみよう。この時、世界は静かなのだろうか?」
以前、ある幼稚園の先生から、「普段の保育室のざわめきも、補聴器を使っている子供にとっては耐え難い騒音と聞こえるらしい。」という話をうかがったこともあり、聴覚だけに限らず、自分の感覚だけを基準に考えてはいけないこともあることに気づかされました。
「インターネットはからっぽの洞窟」を読んで 9.4.6
「インターネットはからっぽの洞窟」(クリフォード・ストール著/草思社刊)
読後の印象としては、代金2266円と読書に要した丸1日の時間を考えると、書名と同様に空しい感じがしました。ただ、「ハイテク教室の子供たち」の章で「学校教育でもっとも必要なことは、答えだけではなくて答えの求め方も教えてくれるような素晴らしい先生と一緒に勉強できることだ。そういう先生とのふれあいがなければ、学校は知識や技術の切り売りの場所にすぎない。教える側と教わる側を物理的に切り離してしまうネットワーク授業は、学校教育とは無縁だ。」「子供は好奇心があるから学習するのだと思う。だが、この好奇心というものを子供に植え付けるソフトウェアは市販されていない。好奇心は、環境との直接的なふれあいを通じて芽生えるのがふつうであって、コンピューター画面上のイメージにいくらふれあっても芽生えはしない。だから子供の好奇心を育てるには、スライドショーやビデオといった抽象的なものより、組み立てセットとかクレヨンみたいな、自分の手に取って遊べるもののほうが必要だ。」の記述には同感しました。それと巻末の「誰が「カッコウ」を書いたの?」のメールのやりとりは興味深かったです。